今帰仁城跡歴史散歩
アタイ原の周辺
城門の前一帯をアタイ原といっている。ここは昔の居住地の屋敷囲いなのか、後年の畑
の境界のためのものかわからないが石垣で仕切られている。この辺からは陶磁器が出土する。
1942年頃戦時食糧増産のため原野だったところも掘り起こして藷を植えたため荒されて原型も壊されているところが多い。
この一帯には拝所が多く、城跡から最も近い所に「ウ−ニ」の遺構がある。原野の中に高さ約70cm、幅約1m、長さ約5.5m〜12mの土塁が二基あって各々向きが異なり一つは北北西に、一つは北北東に向いている。
ここは旧盆のあとの最初の戌の日に祭事が行なわれる。今帰仁ノロ供ノハ−ニ等によって、餅を供えて行なう。ウ−ニのひとつは本部ウ−ニ、もうひとつを今帰仁ウ−ニといって祭事には具志堅からも来る。
竹の棒を持って船を漕ぐ所作をしながら祭が行なわれる。
この祭のことをウ−ニフジとい っている。これから三日間城跡内外で今帰仁ノロを中心に祭事が行われる。ウ−ニの北のこんもりと茂った森の中に今帰仁ノロ殿内と供ノカネノロ殿内がある。
二つは約30m位はなれて建てられている。
今泊の字が今帰仁と親泊に分かれていた頃は、ここの修理を前者は今帰仁が、後者は親泊がやっていたという。今帰仁ノロ殿内は村史によると昔の今帰仁ノロの屋敷跡であったという。供ノカネノロ殿内のことを土地の人は供ノハ−ニとよんでいる。
今帰仁ノロ殿内の西側に阿応理屋恵御殿がある。ここは今帰仁ノロとは関係がない
ところである。古宇利ノロ殿内はウ−ニの東に隣接している。
クバの御嶽
今帰仁城跡の西南方に全山自然林におおわれた標高約190mの山がある。ここはクバの御嶽といい、昔神の天降りしたところと伝えられる。
おそらく沖縄の御嶽信仰からきたものであろう。約137,616・の広大な面
積の山である。山頂にオイベがあり、これを「ワカツカサのオイベ」という。
下には祭場があり、陰暦5月15日と9月15日に祭事が行われる。山頂のイベに行けるのは今帰仁ノロと供のカネノロだけで男子禁制の場になっている。
一般の人々は下の祭場に待っていて、上からノロ達の合図によって拝むという。ノロ達が祭場までくるとノロ、一般
の婦人、男子と三段階に分かれて席がもうけられ、上席はノロ達、中が一般
の婦人、下席が男子の席になっている。祭場と頂上のおイベの中間にあるのは近年ユタによってつくられた拝所である。
プトキノイッピャ−
クバの御嶽の中腹長嶽原に面した所に大きな松が一本、周囲の広葉樹の中に混じって枝葉を拡げている。この松の下に「プトキノイッピャ−」と称する洞穴がある。プトキノイッピャ−とは「解きの岩屋」の意であるという。(村史)
ここは子宝を授かる拝所で近隣は勿論、遠く中南部方面からも参詣にやってくる。結婚して数年子宝に恵まれない夫婦が旧暦5月と9月の各25日に重箱を携えて参拝し、帰りに洞穴内にあるエダサンゴをもち帰り、それをふところにしてその夜同衾すると子宝に恵まれるという。
そして子宝が授かるとそのお礼に浜辺からエダサンゴを持ってきて洞穴にお返しをする。洞穴内にはエダサンゴのかけらが無数に散乱していて、香炉が数基おかれている。洞穴内は16・位
の面積で、奥の方までわずかに直立できる天井の高さである。奥の方には穴をふさいだのか、石が積まれている。近頃ではいつでも参拝者がいるとみえ線香が供えられ、新しい紙くずが周辺に散乱している。
昔、ここで天子孫の三男二女が生まれたとの伝説があり、本部大主(うふぬ
し)の乱の時に志慶真乙樽が王子丘春を抱いて一夜を明かしたとの伝説もある。
外壁
1975年の「海洋博」にともない、民間のホテル建設が盛んになり、そのとき城外の外壁が発見された。
地元では以前から既に知っていたことではあるが、大きな発見であった。
外壁の形状をみると、壁の総延長が約180m余、幅は1.5m〜4mほどあり、高さは最も高いところで約2.5mである。
石垣の積み方は乱雑になり、築城工事中途で終わっている感じさえ受ける。西南方の壁は道路建設等の諸工事のためかなりの破壊が目立つところである。環境整備事業により復元整備が期待されます。
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