今帰仁城跡歴史散歩

城内表面採集の遺物 
 城内の処々から青磁片や白磁、染付片等の陶磁器類が採取される。
  これらの磁器類は歴史文献に現われるところの初代王怕尼芝から攀安知の時代に中国から輸入されたものであろう。明時代の史書『明実録』に始めてみえる「山北王怕尼芝」の初回の貿易年は洪武16年(1383年)からである。
  以後山北王は、民、攀安知の代まで交易を重ねている。明実録にみえる山北の交易回数は洪武16年(1383年)から永楽13年(1415年)までの間である。対明貿易の総実数は18回ほどで、貿易回数からその期間をみるとほぼ2年に1回の割で交易していたことになる。

 その間、ある年には年に2回交易した年もあれば、また10年位の空白期間もあ る。そういった回数の多い年とか長い空白期間は何を意味しているのだろうか。

 城内からは他に、海産の二枚貝、宝貝、シャコガイ、といった貝類や魚骨、獣骨類が採取されている。他に中国の銅銭「洪武通 宝」の破片や、土器片も少量ながらみえる。

 これまで、城外からも多くの磁器片類や石器片が表採されている。  今後の調査で明確な歴史関係が把握できるものと期待されている。


志慶真門
 志慶真門は城跡の南側、本丸跡より一段低いところである。ここは「北山城」の搦 め手 (裏門)にあたるところで、戦略上の要衝であった。城壁は原形に近い形で残ってお り、築城方法研究上重要な資料の一つとなるであろう。

 ここには「胸壁」あるいは「立ち上がり」と呼ばれる壁が、高さ約80cm、幅約90cm、長さ約5m程残っている。「胸壁」復原の基本になるところで貴重な部分である。

 曲輪の途中に、門跡らしいところがあり興味が尽きない。また北東部には「水揚げ場」があり、石垣が築かれている。石垣は志慶真川(東側)に突き出すようにして積まれている。その機能についてはよく解っていない。村史によればこの一帯はかつての倉庫、台所であったという 。


水揚げ場の跡
 この城は標高約100m、古生期石灰岩のほぼ独立した丘上にある。その地質的構造からして雨水が溜りにくい。そこで従来から城内の生活用水についてはいろいろと論議があったところである。

 今泊の古老によると、志慶真川から急崖をかつぎあげたといい、またある人は、網で吊り上げていたところ対岸の敵からその網を弓で射切られたという。平時ならよいが、たとえば籠城となったらどうするか。たしかにわたしたちの疑問は尽きない。

 今帰仁城跡管理策定委員会、今帰仁村文化財保存調査委員会では1978年9月以来再三、このことについて現地踏査をした。城跡地図では志慶真川左岸城跡沿いに「水揚場」と記入されているが、未確認のままに、しかもいつ頃からかわかっていないので、踏査に当たってはいくつかの通 路を仮定して往復してみた。そして三日目にそれらしい遺構にいきあたったのである。

 場所は現在の展望台の東側直下に約10mもある屏風型の大岩があり、さらにこの岩の直下である。川の流れに対して90度近く規模はかなり大きい。野面 積み石垣で幅約3m、長さ約12m、高さ約2mのものが、約10m間隔でほぼ平行に構築されている。急傾斜地であり、石垣の脱落崩壊も甚だしいので正確ではないが、現在の川床から約5mあがったところにある。崩壊のせいで、この遺構の基部についてはよくわからないが、ここから急崖をジグザグに左に巻くように登ると志慶真門に到達する。

 昔、志慶真川の水量が豊かであったとすると、「水揚場」は文字通り「水を」汲みあげる場所だったか、また「水から」荷を揚げる「揚陸場」であったのか、今後の研究にまたねばならないであろう。


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