今帰仁城跡歴史散歩

旧道とミ−ムングシク 
 城下の泉のエ−ガから城に登る道がある。大正年間以前に、歩いて今帰仁上りをした人々や土地の人々には親しみのある道であり、そこを通 った記憶もあるであろう。
  今では県道を乗用車やバスに乗って巡礼しているので全く忘れ去られてしまった小径である。雑木やつたにおおわれているけれど、かつて今帰仁城が栄えていた頃は城主や城士が住来し、神々に仕えたノロをはじめ附近住民もはげしく住来したであろう。
  所々に当時の面影を偲ばせる石道と、老松が残っている。この雑木を伐り拓き石畳の小径を満喫しながら古城に登るのも一興ではなかろうか。また、文化遺産としてもこの小径は十分価値のある「歴史の道」である。

 小径の途中志慶真川の上に「ミ−ムングシク」と呼ばれる孤塁がある。ここは物見の跡であろう。
  東支那海から国頭の連山が一望でき、とても見張らしのよい場所であるが、石がとられたり、雑木が茂って、現在見張らしはよくないが木を伐り拓くと、旧道と共に文化財的価値或いは遊歩道としての価値も十分ある所で将来の計画がまたれる。


シニグンニ
 県道115号線を登っていくと字今泊の戦没者を祭っている慰霊塔のある丘につき あたる。この丘の奥の方、雑木や、つた植物のおい茂った高いところに「シニグンニ」と呼んでいる遺構がある。
  訪れる人もなく、周囲は荒れ放題になっているけれども、この遺構はいつ頃できたものか、何の用に供されたものであるか誰も知らない。形は凸 字型の石積みで正面と思われる西側に四段の階段がつくられている。
  石はこの一帯に多い石灰岩を利用しているが、城跡周辺の遺構の中では最も形の整った遺構である。城跡の遺構で香炉のないところはどこにもないが、このシニグンニだけは香炉や拝んだ形跡が全く見られない。

 墓底部は縦横6mで高さが約0.7mあり、更にその上に縦横4mに、高さが約0.7mの石積みとなっている。形から見ると祭壇のようである。今泊で聞いた話では戦争の時の避難場所であったという。シニグつまり凌ぐの意で戦争からしのぐ、かくれる所であるという説と、次に述べるミ−ムングシクと、タ−ラグシクとともに「見張所」であったという説とがある。

 現在はここでは行なわれなくなったが、今泊の民俗行事として「トントコトン」という面 白く珍らしい名の行事がある。この行事は陰暦7月の盆行事が終わった最初の子の日に行なわれる。戌の日はウ−ニフジ、亥の日はウンジャミ、そして翌日の子の日は島ウイミと、トントコトンの行事が行なわれるがこれは今帰仁ノロとは関係のない行事である。
  ハ−タヌペ−フ、シマヌペ−フは参加するという。昭和初期まではこれらの人々が7〜8人、白鉢巻に白襷がけをし、このシニグンニで行事を行ないそこから出て、今泊のシニグミチで最終行事を行なっていたが、いまではシニグミチだけでの行事だけに終って、シニグミチからシニグンニを遙拝してすませていると語っていた。

 この行事を主宰している上間幾一氏も親の代からのしきたりを守っているだけで、その由来や古式のことについてははっきりしないと語る。この遺構は「トントコトン」の行事と深い関連があるらしいということはわかったが、その他については今後の研究にまつほかはない。


タ−ラグシク
 シニグンニの西方、県道115号線をへだてた森の中に「タ−ラグシク」の遺構がある。大きな自然石の下の穴を石囲いでふさぎ、また自然石の上にも石積みが見られ、三角形状に三基ある。

 土地の人はこれを「チンマ−サ−」といっている。穴の中には人骨が見える。

 ここは明らかに墳基の跡であろう。今泊の一古老はシニグンニ等とともに城の西南方の守りのための見張り所の跡ではないかともいっている。見張り所跡よりもむしろ墳基か風葬の跡の納骨所としての可能性が強いところである。

 昔、城跡周辺住民の人々の納骨所として築かれたものであろうか。

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