今帰仁城跡の歴史

 今帰仁城は北山城とも称され、また「山北今帰仁城」ともよばれている。13世紀の頃に築かれたといわれる平山城で、明確な年代や誰によって築かれたかその歴史は不明なところが多い。

 今から約600年ごろ前に怕尼芝が城主となってから民、攀安知と三代にわたって城壁を拡充整備されたであろうといわれている。それ以前については口碑伝説に頼る以外にない。

 口碑伝説によって城主の流れをみると、天子孫の流れをくむ者が今帰仁世の主(今帰仁城主のこと)となってこの城を築いたといわれている。5代を経た城主の時に中央で「利勇の乱」がおこり、この時に今帰仁世の主も共に滅んだという。この系統を「大昔北山」または「前北山」と称しているようである。

 その後、源為朝の子といわれている舜天王が琉球の王位につき、彼の孫にあたる者が今帰仁城主に封ぜられてきた。この系統を「仲昔北山」または「中北山」とよんでいる。この仲昔北山時代の伝説に伝えられる湧川王子、岡春(丘春とも書く)、また、本部大主の謀叛や絶世の美女と讃えられた志慶真乙樽もこの時代の人々であり、事件である。

 この系統は一族である怕尼芝に城地を奪われることとなる。この系統を「今北山」または「後北山」と称されている。怕尼芝から民、攀安知と三代94年の治世が続いて、攀安知は尚巴志に攻められて滅亡した。この時の城士に本部太原(平原とも書く)が出現するが、この人は先の本部大主とは時代も人物も全くの別 人である。巷間よくこの二人を混同して語られることがある。(以上村史)

 怕尼芝の治世の頃、明国への進貢が行われるようになり、この三代94年の間は最も隆盛を極めていたのではなかろうか。はじめに記した太祖実録に山北の進貢は怕尼芝が六回、民一回、攀安知が十一回の進貢の記録があり、今帰仁城に関する最も古い文献である。

 中山世譜や、琉球国由来記等は明の太祖実録よりはるか後世であり、これらの文献 には尚巴志の北山討伐の模様が記されている。その他、おもろに20数首余り謡われてい る。

 「山北今帰仁城」の「山北」の呼称は、前に述べた太祖実録に「山北王」とでている。つまり「山北、中山、山南」と記されているところから後々までこのように呼ばれたのであろう。

 尚巴志は北山討伐後、その子弟をこの地に遣わして北山の地、すなわち国頭地方の監守とした。「北山の地は中山を遠く離れて人民を教化し難い上に、人々は雄猛で、しかも地形がけわしくいつまた兵乱が起こるかわからないのでこの地に監守をおいて治めさせる」ことにした。第一尚氏が滅亡して第二尚氏の時代にも同じく監守をおいたが、康熈4年(1665年)に監守を首里にひきあげさせた。それから84年後の乾隆14年(1749年)に監守制のいきさつや首里にひきあげた様子を石に刻んで立てたのが本丸跡の火の神の祠前に立っている「山北今帰仁城監守来歴碑記」である。

 その後の今帰仁城のことについてはあまり知られていません。

 このように今帰仁城跡についての文献は少なく、従って歴史についていろいろと疑問の多いところである。われわれは史跡として保存しつつ、その活用と歴史の究明にまた力をつくしていきたいものである。