今帰仁城跡の概要

 この城跡は、昭和30年1月25日に琉球政府文化財保護委員会の記念物の名勝として指定をうけ、昭和37年6月7日に有形文化の建造物として上記委員会の指定をうけている。

 沖縄の日本復帰と同時に昭和47年5月15日に「文部省告示第58号」によって、国の史跡として指定されるようになった。 城跡の指定総面積は55,467.5・で、その内29,977・は今泊の所有地になっている。残る23,401・の公有地(村有地)が城跡の石垣の外にあって現在国に指定申請中である。

 城跡の石垣の総延長は約1.5kmであるが決壊している箇処も多く、早急な修復が必要である。平郎門から左側は1960年頃に琉球政府の補助をうけて修復がなされ、いまでは石垣の上を歩けるようになっている。

 城跡の東から北東にかけては、約70m位の断崖絶壁で、その下を志慶真川の清流が流れている。南にはクバの御嶽と志慶真森がそびえ、本部半島の中軸をなしている山々に連なっている。西側にだけわずかな平地が展け平郎門を出てアタイ原から今泊に展開している。

 城内には、次のような名称でよばれる構築物や拝所がある。平郎門、大隅(ウ-シミ)、カ−ザフ、城内の旧道、大庭(ウミヤ-)、南殿跡、カラウカ−、北殿跡、志慶真乙樽歌碑、ソイツギ、御内原(ウ-チバル)、テンチジアマチジ、本丸跡、火の神の祠、石灯籠四基、山北今帰仁城監守来歴碑記、物見台、志慶真門、志慶真曲輪、本丸、北殿、御内原跡に残る礎石、その他には大隅の東端に抜け穴とおもわれる小さな洞穴があり、展望台の東の崖の上には縦横深さ各、1.5km位 の石積みの穴がある。石垣囲いの内側には以上の各遺構や拝所が残されているが、志慶真川の左岸には「水揚げ場」の跡と思われる二条の石積みが文化財保存調査委員の踏査によって確認された。

 平郎門から大庭に通ずる七五三形式の階段式の参道や、志慶真乙樽の歌碑、御内原の展望台は1950年台に構築されたものである。

 城外周辺には、外壁の跡らしい石垣があり、拝所として、古宇利殿内、今帰仁ノロ殿内、供ノカネノロ殿内、阿応理屋恵御殿、ウ−ニ等がある。更に下ると物見櫓の跡とか、ミ−ムングシクと称される孤塁がある。そこを下る小径は、かつては、城に通 ずる唯一の道であり、自然石を利用した石畳が見られ、処々に老松も残っている。

 エ−ガの湧き泉の東の丘には、運天の大西(ウ-ニシ)墓に移葬する前の墓といわれる「ウツリタマイ」墳墓の跡があって、天井は一部崩れ落ちているが基口が確認された。

  県道115号線沿いには、シニグンニ、タ−ラグシクとよばれる遺構がある。その近くはアタイ原で、昔集落があったといわれているところである。井戸の跡などもあるらしいが、草でおいしげって未確認のままである。

 クバの御嶽に行く道路傍にサカンケ−という拝所がある。御嶽で行なわれる祭事の帰途神人(かみんちゅう)達が御嶽の神にお別 れを告げる所である。

 クバの御嶽は昔神々の天降りし給うと伝えられる聖地である。いまなお自然林におおわれた尊崇高い山で御嶽内には数箇所の拝所があって、神アサギは広く三段階になっている。 ここではノロ、ペ−フ、一般区民の順に参拝序列がきまっている。御嶽の西側中腹には「プトキノイツピヤ」つまり「解きの岩屋」がある。

 志慶真門の南東部は志慶真の集落跡といわれている所で、ここには読谷山川(ユンタンサガ-)といわれる古泉がある。城跡南側県道下の窪地は「ハラクブ」と称しされているが「からぼり」の意であろうか。